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ヤマケン、プロ挑戦とそのルーツ。~山とともに生きるトレイルランナー山本健一さんにインタビュー~(Trail Runner Kenichi Yamamoto)

 2004年からトレイルランナーとしてのキャリアをスタートさせ、アマチュアながら世界の舞台で結果を残してきた山梨県韮崎市出身の山本健一さんが、今年5月にプロのトレイルランナーに転向することを表明。今までも国内外のレースで数々の輝かしい功績を残しながら、更なる高みを目指しアグレッシブにチャレンジするその姿勢に勇気づけられた人も多いのではないでしょうか。ランナーとしてだけでなく地元山梨を盛り上げたいと語る、ヤマケンの愛称で親しまれる山本健一さんに、そのルーツやプロとして活動する心境を聞きました。

「山」中心の生活を送る人たちのライフスタイルを知った

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―まず、先日プロ転向を表明され、プロとしてのキャリアをスタートさせました。あらためておめでとうございます。

山本健一(以下:ヤマケン):ありがとうございます。5月にプロ転向を発表しましたが、野球のイチロー選手が45歳で引退されたじゃないですか。ちょうど地元紙で同じタイミングで記事が出まして、紹介していただいたんです。「イチロー、45歳 引退」と並んで「山本健一、40歳でプロ転向」みたいな見出しが出て、10月が誕生日なので、まだ39歳なんですけど。ちょっと気恥ずかしかったですけれども、やはり嬉しい気持ちとやっと実現したという気持ちが大きいです。

―"ヤマケン"の愛称で親しまれ、トレイルランナーとして数々の実績を残してきたことが実を結び、プロとしてのスタートラインに立つわけですが、いつから「山」を走るようになったのでしょうか?

ヤマケン:信州大学時代はモーグルの選手としてオリンピック目指して滑っていましたが、トレイルランのレースには2004年にデビューしました。近所を走っていたおじさんに誘われて出場した日本山岳耐久レースが最初ですね。

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準優勝したウルトラツール・モンテローザ2018 ©Sho Fujimaki

―初出場となった日本山岳耐久レースでは2000人エントリーの中で26位、そこから4回目の挑戦で新記録をもって優勝しています。

ヤマケン:2008年に4回目の新記録で優勝することができたのは嬉しかったですね。

―その時点では、スキーのモーグル競技でオリンピックを目指していた、とのことですが、本格的にトレイルランに舵を切ったきっかけは何だったのでしょうか?

ヤマケン:翌年に出場した世界最高峰のレース、「ウルトラトレイル・デュ・モンブラン」で8位入賞することができたことは、大きかったです。結果も、もちろん嬉しかったんですが、「山」を走っている最中に選手たちと話をして楽しかったこともあり、気持ちが良くてのめりこんでいきました。もちろん、競争ではあるんですが、殺伐としていなくて、海外の人たちもウェルカムな感じでみんな楽しんでるんです。「山」を走るために生きている。国際レースに出て、「山」を楽しむために生活サイクル自体、「山」を中心にして生きている人たちの存在を知ったんです。それでいいなと思ったんです。29歳のときですね。

―ヤマケンさんはプロ転向するまで学校教諭として地元韮崎の高校に在籍し、山岳部顧問としての活動など行ってきました。それも、やはりその「山」中心の生活につながっていると。

ヤマケン:そうなんです。日常生活、仕事のなかでどれだけ「山」にいる比率を増やしていくかというのは考えていましたね。好きなことを遊びとして仕事に取り入れたかったんです。もともと、僕は高校のときに山岳部に所属していて、地元開催のインターハイで優勝したんです。その経験を活かし、生徒達とも共有できることは何かと考えたのが、山岳部の顧問として指導に携わることでした。北杜高校の山岳部は休部状態だったんですが、生徒を募り復活させました。母校の韮崎高校の山岳部については、今でも学校から頼まれて見に行ったり、アドバイスをしに行ったりしています。

山梨はトレイルランニングにとっては素晴らしい環境がたくさんある

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―トレイルランナーとしてレースに出たのは15年前ですが、ヤマケンさんと「山」との関係性はずっとつづいているんですね。

ヤマケン:実家の裏が「山」だったという環境も大きいですね。小さい頃から、遊びは「山」中心でした。ゴルフボールを10球、「山」に向かって打つんです。もちろん人もいないところ。大きな打ちっ放しみたいなものですね。それを10球打ったら「山」の中に探しに行く、という遊びを延々とやっていました。ゲームとかもやらなかったんで。そういったことが、高校時代の山岳競技でのインターハイ優勝、トレイルランナーとしてのキャリアにつながっているかもしれません。

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2012年に優勝を飾ったグランド・レイド・ピレネー ©Sho Fujimaki

―漫画の主人公のようなすごいエピソードですね。そんなヤマケンさんを育んだ韮崎市のため地域活性化に関する活動も行われているとか。

ヤマケン:山梨はトレイルランにとっては素晴らしい環境がたくさんあるので、その素晴らしさを伝えていきたいですし、地元に還元したいと思ってやっています。もう4年目になるのですが、月に1回、日の出とともに身体を動かす「にらさきサンライズトレーニング」というのを開催しています。韮崎から見る日の出は美しいんですよ。参加者は県内の人が主ですが、県外からも来てくれる人もいて。あとは、韮崎の「マルス穂坂ワイナリー」の近くに、穂坂自然公園という場所があるんですが、穂坂自然公園内のコースを整備したり、年1回そこでヤマケンカップというレースを主催しています。

―ヤマケンさんのドキュメンタリーの上映会などもこの「アメリカヤ」で行われたそうですね。(この日の取材は韮崎市のリノベーションビル、「アメリカヤ」で行われた)

ヤマケン:はい。トレイルズインモーションという、トレイルランカルチャーに関する映画を扱う国際映画祭があるんです。そこへ出品された作品なんですけど、「ON THE CORNER」というタイトルの僕のドキュメンタリーを制作してもらいました。それを国内ではいちはやく地元で先行上映というかたちで「アメリカヤ」で上映させてもらいました。他にも韮崎駅となりのコミュニティセンターニコリや、さきほど話した「マルス穂坂ワイナリー」でも上映会を行いました。

何事もやるかやらないか

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―これからプロとしてのキャリアを歩んでいくわけですが、どのようなプランを思い浮かべていますか?

ヤマケン:この10年で、やっと自分が思い描いていたビジョンが実現に近づいてきたので、先の5年、10年が勝負。ずっとウェアをサポートしてくれた、アウトドアブランドの代理店FULLMARKS所属の選手という扱いになるんですが、FULLMARKSでもプロ選手契約を結ぶのは初めてのことです。その信頼と期待に応えるためにいい走りをしたいなと思います。

―すでに数々のレースで最高といえるほどの結果を残していて、国内外のレースでの優勝経験もあるヤマケンさんの、モチベーションの源はどんなところにあるのでしょうか?

ヤマケン:天候や地形、自分のコンディションで、同じレースでも全く違うものになる。そこにトレイルランの面白さがあって、やれることは無限にあるんですよ。僕が初めて国際大会に出たモンブランのレースの、歴代優勝者の中には58歳という方もいるんです。45歳くらいでトップランナーという選手も多い。そういった人たちと競うわけですから、年齢が言い訳にならない。過酷な環境に負けない身体をつくっていきたいです。結局、何事もやるかやらないかなんです。僕の人生はいつもそうでした。やると決めたら出来ると信じています。それがモチベーションですね。

―ヤマケンさんの人生は「山」とともにあるんですね。

ヤマケン:家族の理解にも感謝しつつ、きっと選手でなくなっても、「山」を走る、歩くということはずっと続けていきたいと考えています。

Article written by VALEM co., ltd.

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山本健一

1979年、山梨県生まれ。信州大学時代はモーグル選手として活躍。2012年に国内で初めて開催された100マイルレース「ウルトラトレイル・マウントフジ(UTMF)」で日本人最高の3位に入賞。フランス「グランレイド・デ・ピレネー」では日本人初の優勝という快挙を果たす。2013年アンドラ・ウルトラトレイル2位、2015年レシャップベル2位など、トレイルランナーとして国内外のレースに挑戦し、実績を残している。2019年3月まで高校教諭として地元の高校に勤務しつつ活動してきたが、5月に有限会社FULLMARKSとプロ契約を結び、プロトレイルランナーとしてのキャリアをスタートさせた。

山本健一 ドキュメンタリー 「ON THE CORNER」
https://vimeo.com/342733343

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