ページ内を移動するためのリンクです

山梨の縄文遺跡から知る、縄文時代という長大安定期。


三内丸山遺跡の大型竪穴建物(復元)内写真は三内丸山遺跡の大型竪穴建物(復元)内(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)

縄文時代。
聞き慣れた言葉なのでついつい分かった気になってしまいますが、実は1万3,000年以上も穏やかな時代が続いた長大安定期。縄文遺跡の中には、6,000年以上も同じ場所で生活が継続した驚異の集落もあります。

大きな戦争はありませんでした。狩猟採集時代にこれほど長期間にわたり定住を行った例は世界でも縄文時代だけと言われています。

そんな縄文時代の日常や文化とはどのようなものだったのでしょうか?山梨県の遺跡や全国的に有名な遺跡を例に迫ります。

縄文時代の暮らしや価値観を、山梨の遺跡や全国の遺跡を例にご紹介します。

この記事の目次

縄文時代とは

諸説ありますが、縄文時代は今から約16,000年前から約3,000年前までの間、実に13,000年ほど続いた時代です。

狩猟採集社会で、「森や海の恩恵を受けながら土器を使って煮炊きした時代」と定義されます。つまり、土器を使って煮炊きすることで食べられるものや保存できるものが増えたのが特徴です。

縄文時代は長大な安定期〜なんと6,000年間続いた集落も

縄文時代には天候に左右される不安定な狩猟採集生活で移動を繰り返すイメージが以前はありました。ところが、近年の研究でそのイメージは大きく変わりました。

縄文時代の遺跡の調査により、1,000年以上集落が継続した長期定住集落遺跡が多くあり(青森、三内丸山遺跡など)、なかにはなんと4,000年間(石川、真脇遺跡)、6,000年間(北海道、垣ノ島遺跡)も、同じ場所で集落が継続した例もあります。

もしも食べ物が不安定だったり争いが絶えなかったら、同じ場所で何千年も住み続けることは到底できないはずです。このことからも、縄文時代が平穏で持続的な社会であったと考えられています。

弥生時代以降とは根本的に違った縄文時代の社会構造

縄文時代は弥生時代とどう違うのでしょうか。違いは稲作の開始と言われますが、それが社会構造にどう影響を与えたのでしょうか?
縄文時代は、食べ物を協力して得て、獲ったものや育てたものをみんなで処理したり保存する共同生活でした。リーダー(長老など)がいる助け合いの社会で身分や貧富の差はあまりなく、弱い者は生活の助力を得ていたと考えられています。

一方、弥生時代には水田で米を作る者と作らせる者が生まれ、お米という富を蓄える人が現れます。すると、水を引くための戦いや土地の奪い合いが起こるようになります。実際に、弥生時代の遺跡からは、額にやじりが刺さった人の骨や殴られて殺された人の骨が出土するようになります。縄文時代には殺傷目的の武器は出土せず、戦争という概念は存在しなかったと専門家は指摘しています。縄文遺跡は前述のとおり数千年続くことも珍しくなかったのが、弥生時代に入ると遺跡は長くても数百年しか続かなくなります。

このように、縄文時代が弥生時代と大きく違うのは、その平穏さと持続性ということになります。

交易は広範囲

縄文時代の交易
縄文時代には日本の広範囲で交易が行われていた

縄文時代、日本列島の多くが森や湿地に覆われていました。そのため集落は閉鎖的で、周りとの交流も疎遠だったと思うかもしれませんが、実際にはかなり交易が盛んに行われていたようです。

例えば、新潟県糸魚川産のヒスイが遠く離れた青森や沖縄諸島から見つかっています。また、当時、狩りのマストアイテムだった黒曜石も、長野産のものが仙台や北海道、関東からたくさん見つかっています。

当時すでに海路や陸路が確立していて、日本列島全体でものの行き来が起こっていたようです。

土偶というものづくり〜釈迦堂遺跡から

縄文時代と言えば真っ先に思い浮かぶ土偶。

乳房やお腹、臀部を誇張した女性像の土偶が多く出土するため安産や豊作などを祈った、片方の足を故意に破損した土偶も多く、ゴミ捨て場に捨てられていることが多いため病気の回復や厄災払いを祈った、呪術や子供のお守りとして使われた、など土偶の目的にはいろいろな説があります。

山梨県の釈迦堂遺跡は大量の土偶が出土した遺跡として有名で、計1,116個体の土偶が出土しています。これは全国の7%程度を占める数と言われています。

釈迦堂遺跡の土偶
釈迦堂遺跡の土偶(撮影:塚原明生、所蔵:釈迦堂遺跡博物館。許可を得て掲載)

山梨は今はジュエリー・アクセサリー加工などで有名な地ですが、当時もあったであろう富士山や八ヶ岳の風景が造形ごころに火をつけたのでしょうか?

縄文時代の『柱』というキーワード

石川県の真脇遺跡から、円形に配置された巨大なクリの柱の列の跡が出土しました(環状木柱列)。同様の遺構は石川県や富山県を中心に約20遺跡で見つかっています。用途は不明です。

真脇遺跡の環状木柱列(復元)
真脇遺跡の環状木柱列(復元)(真脇遺跡縄文館より許可を得て転載)

また、石川県から遠く離れた青森県の三内丸山遺跡でも、巨大なクリの柱を6本立てた遺構が出土しています。専門家の意見は「建物説」と「柱説」に分かれ、目的も用途も最新科学をもってしてもいまだ不明です。

三内丸山遺跡
三内丸山遺跡の大型堀立柱建物(復元)と大型竪穴建物(復元)(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)
三内丸山遺跡
三内丸山遺跡の大型掘立柱建物跡調査風景(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)

このように、柱を建てた遺構が縄文時代の遺跡からたびたび見つかる理由はよく分かっていません。真脇遺跡の場合、円の中から人骨や火を使った跡は見つかっていないため、お墓や炊事場ではなく、祭事や儀式などの役目を持つ場所であった可能性があります。この集落は古くからイルカ猟をやっていたため、漁に感謝するための祭壇だったと考える研究者もいるようです。

柱の構造物は実は現代にも多く見い出せます。たとえば、神社の鳥居や出雲大社本殿の巨大柱構造物(最近発見された)、諏訪の御柱祭り(おんばしらまつり)などです。山の斜面に巨木を落とす木落しで有名な御柱祭りですが、運ばれた御柱は諏訪大社境内の本殿四隅に建てられます。縄文遺跡に見られる巨木を建てる風習に妙に符号するのです。

哲学者の梅原猛は、ハシラの意味を縄文文化を色濃く残すアイヌ語を交えて考察し、縄文時代から高く大きな柱を立ててこれを崇め、お祈りする風習があったと指摘します。

縄文時代の動物飼育・ペット

縄文時代、犬が猟犬として飼われていたことが分かっています。大切に埋葬されているケースも見つかっているので、家族として生活をともにしていたと考えられます。 猫はどうでしょう。猫派としては気になるところです。
実は縄文時代当時、オオヤマネコが本州にも生息し、縄文時代の遺跡からまれに骨が出土します。とはいえ犬ほどは縄文人の生活に身近ではなかったようで、狩猟対象動物だったと見られています。それでもオオヤマネコの歯に穴を開けた装飾品も出土しているため、高い狩猟能力を誇示するアクセサリーとして、あるいは謎多き洗練された動物を象徴的に扱う呪術的な道具として用いられていたのかもしれません。

さらに、こんなかわいい土製品も出土しています。

ネコ形土製品
ネコ形土製品(福島県郡山市町B遺跡出土)
(縄文時代中期~晩期)(郡山市教育委員会所蔵、許可を得て掲載)

これはどう見ても猫に見えますが、実際にネコを表現したかどうかは不明だそうです。この土製品を見ていると、当時も今も、かわいいのセンスは同じと思えてしまいます。

森の動物の生態に通じていた当時の人たちですから、猿やイノシシの子やリスなどを捕まえてきて、集落でペットとして飼っていたかもしれませんね。そんなときには、子供たちが喜々として世話役をかってでた光景が目に浮かびます。

縄文土器〜世界的に見ても高度な装飾

縄文時代を縄文時代たらしめたのは土器で煮炊きを始めたことですが、当時から土器は単に目的を果たせばいいということではなく、縄模様や渦巻き模様をつけたり、火焔や水煙、人や動物をかたどった装飾物を付けたりとデザインにもこだわっていました。狩猟採集生活においてこのような高度なデザインが進化した例は世界的に珍しく、海外の博物館でもしばしば縄文土器が展示されています。

釈迦堂遺跡の水煙文土器
釈迦堂遺跡の水煙文土器
(撮影:小川忠博、所蔵:釈迦堂遺跡博物館。許可を得て掲載)

こちらは山梨県釈迦堂遺跡から出土した縄文土器。水煙(みずけむり)のような構造が幾重にも重なって全体として美しい曲線を醸しだしています。これが日々の煮炊きに使われていたなら、当時の生活は実用と高い芸術性に根付いたものだったことが分かります。

現代の食器やお皿も形や絵付けなどデザインにこだわることは同じです。デザインが生活に彩りを与えてくれることを縄文人も現代人も知っていたということでしょうか。

縄文時代のスイーツ

縄文時代にはオシャレなスイーツもあったそうです。それはクッキーです。全国各地の縄文遺跡から、ドングリやクリから作ったクッキーの炭化したものが出土しています。
作り方はとても凝っていたそうです。まずはクリやどんぐりを石の皿と延べ棒のようなもの(磨石)で粉にします。
その粉にどんなものを混ぜたのかは推測の域をでないものの、動物の脂や野鳥の卵などを混ぜて焼いたのでは?と推測する研究者もいます。遺跡によっては、クッキー1つひとつに丁寧に渦巻き模様がつけられたものもあり、当時からオシャレにスイーツづくりに取り組んでいたようです。

縄文時代の労働時間は4時間⁉

一説には縄文時代は1日4時間程度の労働だったといいます。現代社会では労働のために日々の日常を味わえなくなっている人もいますが、当時は今と比べたらだいぶゆったりとした時間が流れていたようです。

もっとも当時は労働という観念はおそらく希薄で、食べ物を獲りに森に行く、面白い形を思いついたから土偶を作るなど、目的と行動が直結していたのだと思います。また、祭りや通過儀礼、食べ物への感謝・死者への弔いの儀式に多くの時間を割いていたようです。

以上、長大安定期、縄文時代の暮らしの解説でした。

このように見てくると、当時は優れた持続可能な社会が形成されていたことが分かります。当時から学ぶ、と言うとありきたりですが、1万年以上も続いた安定な社会から、これからの社会の理想的な形を探ったり、人類がなぜ戦争をするのかという問いに迫る学問が進むかもしれません。

一方で、6,000年以上同じ集落で同じ暮らしを続けた縄文時代とは対照的に、たった数百年でここまで科学技術を進化させた現代人。自動車や飛行機で簡単に移動でき、YouTubeで好きな動画を見て、美味しい食事やスイーツを食べ、SNSで世界中の情報をすぐに得られるこの日常に、やはり現代社会の価値の高さを実感せずにはいられません。

Written by ヒノキブンコ

関連記事

ページの終わりです