「西島和紙工房」山梨県の伝統産業「西嶋和紙」を新たな形で今に伝える
武田信玄が認めた西嶋和紙
西嶋和紙の歴史は約450年前、戦国時代に望月清兵衛翁が現在の伊豆市で三椏(みつまた)を原料とした和紙製法を学び身延町西嶋に持ち帰ったことが始まりです。当時の甲斐国主・武田信玄は、光沢のある艶やかな西嶋和紙に惚れ込み、清兵衛を紙の役人に任命。こうして西嶋和紙づくりは、徳川時代まで身延町西嶋を中心とする峡南地域において盛んに行われました。
戦後になると西嶋では、故紙や稲ワラなどを独自に配合させ「墨色の発色」「にじみ具合」「筆ざわり」に特出した「画仙紙」を開発。70年以上経過した現在も西嶋和紙づくりの中心は「画仙紙」であり、全国の書道家や書道愛好家に愛用される一級品として認められています。
和紙のもつ新たな可能性を探るため「西島和紙工房」を設立。
楮や三椏を主原料に、山野に自生する草木を素材に使用
かつて身延町西嶋地域に100件以上あった和紙工房は、時代とともに製紙の機械化が進み、伝統的な紙漉きで行う和紙工房は現在7件にまで減少。それに伴い、主原料であった「三椏」や「楮(こうぞ)」を栽培する生産者も激減し、古来の自然植物を主体とした和紙は希少なものになりました。
「西島和紙工房」代表・笠井雅樹(かさいまさき)さんは、楮(こうぞ)や三椏を原料にして「手漉き」による伝統製法で紙を漉き、山野に自生する草木を材料や染料に使いながら自然の息吹を感じられる優しさや温もりを感じる和紙づくりを大切にしています。
「西島和紙工房」が、自社工房とは別に週2回ほど紙漉き体験の場として開放しているという身延町にある富士川クラフトパークの一角にお邪魔すると、紙漉き製法の説明とともに「ここが西島和紙工房の始まりであり、私の和紙づくりに対する価値観を大きく変えた場所でした。」と笠井さんは少し照れくさそうに話します。
身延町西嶋の紙屋に産まれ育った笠井さんは、大学卒業後から和紙を漉いてきました。平成元年(1990年)、西嶋和紙工業協同組合の代表として富士川クラフトパーク内の和紙体験施設をオープンするタイミングで「西島和紙工房」として独立。その後、東京の美大でガラス造形を学び同施設内のガラス工房で働いていた奥様・英さんと出会ったことで、他工房とは全く異なるアプローチで西嶋和紙を伝承していくことになりました。
「夫婦二人三脚で工房をスタートさせてまもなく、全く紙漉きをやったことのない妻に教えるタイミングがありました。自由な発想で紙を漉く様子にヤキモキしていましたが、できた作品を工房で販売すると形がまばらで凹凸のある妻の商品が私のよりも売れたことがありました。それまで、同じ厚さで均一な和紙を一日に何百枚と漉きながら腕を磨く日々の中で、雷に打たれたような経験をさせられました。」と笠井さんは笑いながら当時を振り返ります。
西嶋和紙を "産業" として残すための取り組み
その後、仕事の大半を占めていた書道用紙づくりをやめ、それまでの常識に捉われない新たな西嶋和紙の在り方を追求しています。奥様・英さんが考案したという花器は、繊維が長く強靱な楮(こうぞ)を使用。目的に合わせて原料の配合を変え、オリジナル和紙をつくる時は、紙漉き道具もハンドメイドで製作しています。
7軒の紙屋で構成されいる西嶋和紙工業協同組合では、卒業証書などの大口受注を組合で請け負い、それぞれの工房に均等に割り当てることで、西嶋和紙を「産業」として継承しています。
「日本の伝統産業の多くは、後継者不足などの理由から国や自治体がなんとか保護している地域も多い中で、西嶋では地域の仕事として今日まで成り立たせてきました。私たちもまた、紙漉きの面白さをたくさんの人に伝え、私たちの紙を手に取ってくれた人が楽しくなったり生活に潤いを得たり、そんな手助けが少しでもできればと思いながら日々紙づくりをしていきたいです。」と優しく語る笠井さん。
時間をゆっくりかけて素材の良さを生かすようにすることで、独特の柔らかさと滲みが出る西嶋和紙のように、それぞれに微妙な表情の違いを持ち、優しさや温もりを感じる「西島和紙工房」の和紙やモノづくりは、長くゆっくりと人々に愛されていくはずです。
Article written by VALEM co., ltd.
西島和紙工房
富士川クラフトパーク アートスクエア内(手漉き和紙体験&販売)
山梨県南巨摩郡身延町下山 1597番地
※詳細は下記URLを参照してください。
https://tesukiya.com/
Instagram : nishijima_washi_kobo
Mail : tesukiya@mac.com