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ROOTSやまなし タイの地で野球道を貫く 青山功 (タイ野球代表監督)【Vol.1】

aoyama_Thumbnail.png 遠く離れたタイに野球文化の礎をゼロから普及させ、今では代表野球チーム監督を務める甲州人がいます。青山 功さんは、山梨県笛吹市境川町出身。今年でタイ居住29年目です。代表監督の傍ら、子供たちのクラブチームの指導も毎週末朝から夕方まで行っているパワーマンです。
 現地商社のディレクターも務めているので、休む間も無く野球に人生を捧げていらっしゃいます。山梨に縁がある各界の頑張る人をピックアップする新コーナー、「ROOTSヤマナシ」の一稿目は、海を越えて情熱的な野球道を走り続ける青山さんのインタビューをお届けします。

「当時の遊びと言ったらとにかく野球」海を越えたライフワークに至るまで

――笛吹市(境川町)出身と聞いて驚きました。どのような少年時代を過ごされたんですか?

青山(以下 青):
 山梨の我が家は父子家庭だったんですよ。小学校時代に母を亡くしたんですが、父は男手ひとつで3人兄弟を育ててくれました。文武両道で頑張っていましたが、最終的には野球を通じて父を楽にさせたいという想いが年々強くなっていったんです。
 今思えば国土交通省(旧建設省)建設大学を受験する際、野球の経歴を見てくださった先生方との出会いが大きな分岐点だったかと思います。当時から海外に視野を拡げて行こうとした大学だったので、国外に対しても色んな間口があったんですね。個人的にも海外には興味があったので、大学3年の時に1ヶ月半単身アメリカへバックパッカー旅行もしました。

aoyama2.jpg 当時は就職に関しては全く困らず、15社近くの面接依頼があったりと今考えると本当に良い時代だったなぁと思うわけですが、年を追うごとに「海外へ行きたい」という気持ちはどんどん強くなっていくばかりで。4年になったら中国・ブラジル・マレーシア・タイ・インドネシアなど、学校のプログラムで海外研修があったので迷わず応募しました。そこでたまたまタイの代表に選ばれたのがこちらで仕事をするキッカケのひとつでした。大学の先生の紹介でたくさんの縁が生まれました。

――その当時から強い海外志向があったので、タイでの生活も上手く進んでいったんでしょうね。

青:
 同級生30人くらいの仲間がみんな続々と就職が決まって行く中、僕だけ就職しないで海外へ行く、という流れ。学校長からも「お前、何を考えているんだ。悪いことは言わないからちゃんと就職を考えろ」と何度も言われましたね。
 卒業アルバムには仲間は「◯◯建設」「◯◯組」「公務員」と今後の就職先を書いているのに、僕だけ「俺の空」と書いたのもいい思い出です(笑)

スタートラインには、何も無かった。

――そして1990年、本当に海を越えてしまいました。タイの土地に降り立った野球人青山さんの目にはどんな景色が。

青:
 何よりもまず驚いたのが、当時は野球という文化そのものがなかったんです。僕が人々に自己紹介をする上で欠かせないことなので、「野球というのはチームプレイで人格形成にも役立つし、こんな素晴らしいスポーツは無いんですよ」と現地の方々に熱を込めて話したところ、気がつけば自然に1年目から子供たちに野球を教えるという流れになっていました。
 日本人会のネットワークにご協力頂いて、日本からバットやグローブなどの道具を送って貰いました。本当に道具すらなかったんですよ。でもなぜか、「きっと上手くいく」という自信がありました。

(注釈)闊達に野球について話し始める青山さんには、人を惹きつける大らかさと熱を感じます。ゼロからタイに野球文化を作って来た人ならではの魅力にたくさんの賛同者が生まれていったにも十分に頷けます。

青:
 今後タイでどう野球を拡げて行くか、といつも仲間と夢を膨らませていきました。さらに言えば、今とは違い20代前半の日本人の若造なんてその時のタイでは珍しかったので、現地の日本人の先輩方にはよく可愛がってもらいましたよ。若さも手伝って、エネルギーがあったんだと思います。
 特に、元慶応大学野球部監督でもある榊原敏一氏が、邦人企業であるミネベア社のタイ責任者として既にいらっしゃったので、ご縁を頂いて彼と一緒にミネベア社のご協力のもと、1992年にタイアマチュア野球連盟の設立に至りました。アジア野球連盟のバックアップも得ながらタイ野球のベーシックな部分を築くことが出来たと思います。

――まさに出会いが出会いを呼び繋がっていったんですね。チームの初舞台へ向けて、どんなプロセスがあったのでしょう。

aoyama3.jpg 青:
 1994年に広島アジア大会があるので、折角だからそこへタイから選手団を派遣しようじゃないか、と第一の目標を作り大きなプロジェクトがスタートしました。とは言っても、その時はまだ誰もチームに選手がいないわけです。仲間とありったけのバットとグローブ、ボールをかき集めて現地の大学の陸上部の足の速い子をリクルートしてみたり、やり投げの肩がいい子に声をかけてみたり...。
 それでもみんな中々興味を持ってくれなかったので、最初は「ご飯をたらふくご馳走するからとりあえず来い!」というズルい戦術も使いました(笑)。 とにかくまず集まるは集まったわけです。しかし始まってみればみんな元々スポーツマンなので、チームの形を作るプロセスに時間を費やすことに集中していきました。

aoyama4.jpgアンダー18アジア選手権大会

(注釈)  数々の地道な努力が功を奏して、94年の広島アジア大会へは無事初のタイ野球チームとして試合を開催。2017年、タイアマチュア野球連盟はタイ野球連盟に名称変更して規模拡大に繋がっています。

――青山さんが指揮をとって、野球界のスターを現地に呼ぶイベントや野球教室も開催されていらっしゃいますよね。名だたるビッグネームたちがタイにいらっしゃったとか。

青:
 そうですね、最近では名球会のプロジェクトにタイの野球教室訪問も入れて頂いたりもしています。1990年代後半からは、王貞治氏など日本野球界を代表するのスターの皆さんをゲストにお招きし、講演会などを通して日本の野球道を選手や子供たちにメッセージを送っていただく時間を企画しています。立ち上げ当初から考えれば夢のような出来事です。
 最近では元巨人の鈴木 尚広氏が、熊本地震の復興支援チャリティの一環で来て下さいました。残念ながら1月に亡くなられた星野仙一氏は、なんとプライベートでチームを訪問してくださり、「日本球界OBも挙げて応援しようじゃないか。」と笑顔で言ってくださったことが今でも強く心に残っています。野球人としても、一人の人間としても大変素晴らしい方でした。
 面白い話で言えば、名球会の方々が日本にたくさんのバットを送って下さるんですが、それが錚々たる選手のネーム入りの使用済みバットだったりするんです。僕ら日本人は恐れ多くて使いづらかったりするんですが、日本選手をあまり知らないこちらの子供たちは、ブンブン使ってしまうんです。あれには恐れ入りました(笑)

aoyama5&6.jpg(左写真)元巨人 鈴木氏と

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Article written by New Attitude

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